Q&A

Q1: クリスチャンでなくても、教会に行って大丈夫ですか?

 

大丈夫です。

今いる方々も初めて教会に来られた時は、ほとんどの人がクリスチャンではありませんでした。

どうぞお気軽にお越しください。

一度来たら、来続けなければならないこともありませんので、ご安心ください。

 

   

Q2: 初めて教会に行く場合、どうしたらよいですか?  

 

教会の人に「初めて来たこと」を伝えてくだされば、ご案内します。 

 

 

Q3: 何を持って行けばよいですか?どのような服装で行けばよいですか?

 

貸出し用の聖書や詩歌がありますので、手ぶらで来ていただいて構いません。

服装の決まりはありませんので、普段着で大丈夫です。

  

Q4: 信仰や入会を強制されたりしませんか?

 

信仰は強制されるものではなく、自ら選ぶことですので、強制はしませんので、ご安心ください。

 

 

Q5: 献金を強制されたりしませんか?

 

献金を強制されることはありません。また、献金袋を回すこともしません。

献金は神に対して自発的に隠れて行なうものですので、各自の信仰に任せられています

(マタイ6:1-4)。

  

Q6: 聖書の言っている救いとは何ですか?

 

一つは永遠の滅びからの救いです(ヨハネ3:16)。

永遠の滅びというのは、世間では地獄と言われているもの、聖書では火の池と呼ばれているものに永遠にわたって入れられることです(啓示録20:15)。これは第二の死とも言われています。だれでも主イエスを信じることにより、この事から永遠に救われます。

 

もう一つの救いは日ごとの救いです。

神の命を受け、この命を成長させることにより、日常生活の中でさまざまな消極的なものから救われ、積極的なものを与えてくれます。この救いは、罪、短気、不安、悩み、憎しみ、不満、口論などから解放し、喜び、愛、満足、知恵、思いやりなどを与えてくれます。 

 

Q7: 「〇〇に在る教会」とは何ですか?

 

沿革=「○○に在る教会」とは、分派(教派)、組織・伝統を嫌うキリスト者たちが、純粋に聖書の模範に従い、日本では1954年(昭和29年)頃から、それぞれ地元に在って一つである立場に立って集まるようになった教会です。本部を持ちませんし、何一つ永久的な職位、組織化された指導権もありませんし、どんな階級制度も、準頭者も、中間者も認めていません。聖徒たちはみなお互いに兄弟姉妹としか呼び合っていません。現在70数都市にこのような教会があります。なお、「地元にあって合一である立場に立つ教会」とは、説明のことばです。名称ではありません。

(出典:2018年キリスト教年鑑、p.121

 

聖書はわたしたちの唯一無二の標準ですので、わたしたちは聖書の中で罪定めされている分裂の立場や独自の名称(それが聖書の真理であれ、偉大な人物であれ)を取ることはしたくありません(Ⅰコリント1:10-12)。聖書の中の教会の立場は、「アンテオケに在る教会」(使徒13:1)や「エペソに在る教会」(啓示録2:1)などと書かれているように、地方都市がその立場であることがわかります。このゆえに、横浜市に住んでいるわたしたちは聖書で示されている模範にしたがい、「横浜に在る教会」として教会生活を行なっています。

 

また、使徒の時代の初期の認識と実行によれば、教会は建築物を指すのではなく、その地方都市に住むすべてのクリスチャンを指していました。わたしたちは主イエス以外の名前を何も掲げない、横浜にあるただの「教会」であることを神の御前で望んでいます。そして、ヒラデルヒアに在る教会のように、少しばかりの力をもって、主の言葉と主の御名を否まずに、主に喜ばれる者となることを願い(啓示録3:8)、共に神の住まいとして建造されていくことを目標としています(マタイ16:18、エペソ2:21-22)。

 

Q8: 教会と召会の違いは何ですか?

 

日本語で「教会」というと、とんがり屋根に十字架のついている建物を想像する方が多いのではないでしょうか? あるいは、漢字の意味から見ても、「会衆に教える」というイメージを持たれているかもしれません。しかし、この言葉のギリシャ語原文は「エクレシア(ekklesia)」という言葉で、「ek(~から)」と、「kaleo(召された会衆)」の派生語から成っています。ですから、原文どおりの意味は、「召し出された会衆」、つまりこの世から救われたクリスチャンの集まりのことを指しているのです。ですから、わたしたちは真理の意味が正確に伝わるように「召会」という言葉を採用しています。

  

 

教会という言葉が最初に使われたのは西洋の宣教師たちが日本に来た時でした。彼らは、信者の集まりを教会、すなわち、宗教の集会と呼びました。それにあたる英語はchurchです。ある辞書はそれを礼拝堂(クリスチャンの集まる場所)であると言っています。また、ある辞書はクリスチャンが一つの団体であり、その名称がchurchであるとも言っています。

 

 

A.D.1828年、宗派の立場から出て来た一群れのクリスチャンたちから成るブラザレンが英国で起こされました。その中で先頭に立ち、主に大いに用いられたジョン・ネルソン・ダービーはこの啓示をはっきり見て、彼の訳した聖書では「church(教会)」ではなく「assembly(集まり/会衆)」という言葉を使いました。それはクリスチャンの集まり、すなわち、召会を指します。20世紀に至って、中国圏の海外では召会という言葉を使うクリスチャンが増えてきていますが、日本でこの真理を見て、この言葉を用いている群れはわたしたち以外にほとんどいないのが現状です。

 

Q9: 主日とは何ですか?

 

「主日(Lord's day)」という言葉は、聖書の中で一回だけ使われています。使徒ヨハネは啓示録第110節で、「わたしは主日に霊の中にいた」と言っています。主日は初めの日であり、週の初めの日は主の復活の象徴です。なぜなら、主イエスは週の初めの日に死人の中から復活されたからです(ヨハネ20:1)。わたしたちは聖書の啓示にしたがって、日曜日ではなく主日という呼び方を好んで使っています。

 

Q10: 主の回復と何ですか?

 

わたしたちが地方召会の中にいるのは、神の回復のためです。わたしたちの証しを正しく理解するために、わたしたちは「回復」の基本的な定義を以下のとおりにします:

 

1.回復という語は、失われていたあるものをもう一度獲得する、あるいは損傷を受けたものを正常な

 状態へ回復することを意味します。神がある事柄を回復しておられるということは、ある事柄が教会

 歴史の過程で、失われ、誤用され、腐敗させられてしまったということ、そして、それを神が当初の

 状態へと回復しておられるということを意味します。

 

2.教会は数世紀にもわたる歴史を通して堕落してしまったので、神の当初の意図にしたがって回復さ

 れる必要があります。教会に関してわたしたちが見たビジョンは、現在の状態や伝統的な慣行には支

 配されていません。わたしたちが見たビジョンは神の当初の意図により、また神の御言葉の中に啓示

 されている不変の標準によって支配されています。わたしたちは、教会に関する新約聖書の啓示を単

 なる歴史上の事例とは考えず、現在の教会の実行の模範と考えています。

 

3.神の回復は二十世紀に始まったのではありません。開始の正確な日付を決定することは困難です

 が、カトリックの腐敗からのマルチン・ルターによる改革の時(宗教改革)とするのが妥当です。回復

 は改革の時から数回の段階を経て発展してきました。ジンゼンドルフ(Zinzendorf)の指導の下で、ボ

 ヘミアで教会生活が部分的に回復されました。プリマス・ブラザレン(Plymouth Brethren)が、ジョ

 ンネルソン・ダービー等の導きの下で数多くの貴重な聖書真理を解明し、内なる命の真の経験へとさ

 らに進みました。今やこの回復の動きは、キリストのからだの表現である真の地方召会の建造という

 段階に達しています。

 

4.今日、主は彼の回復の中でおもに二つの事を行なっておられます。一つは、キリストのさまざまな

 豊富の経験を回復すること、すなわちわたしたちの命またすべてとしてのキリストの享受を回復する

 ことです。もう一つは、教会生活の実行を回復することです。実際的な教会生活は、キリストのさま

 ざまな豊富を享受することから出て来ます。主の回復の中にいるわたしたちは、キリストが計り知れ

 ない豊富を持つ方であり、わたしたちの享受のためにすべてを含む方であることを証しします。そし

 て、神の純粋な言葉の啓示にしたがって教会生活を実行する負担を、主がわたしたちに与えてくださ

 ったことを証しします。(参考:主の回復の歴史)